送電工事

去る12月13日、宮守村で行われている鉄塔建設に伴う仮設工事の現場にパトロールでお邪魔した。工事は、岩手県玉山村にある岩手変電所から宮城県加美町にある宮城変電所に至る184.4キロメートル、この間に453基の鉄塔が建設され、
500キロボルトの送電線が敷設される。平成17年7月に着工して運用開始は平成22年12月というから5年余にわたる工事となる。

伐採現場

パトロールの当日は大雪注意報の出る悪天候。車の轍も消えてしまった林道を慎重に進み、行き着いた先へは長靴でラッセルしながら徒歩で進む。チェーンソウのエンジン音が近くなってやっと現場に到着。現場の班長さんが「ご苦労様です!」と元気よく迎えてくれる。現場の概況を聞きながら、安全管理の状況を見て回る。パトロールに参加したメンバーが「この辺は蔓が多いのかね」と聞くと、すかさず班長さんが「結構多いんですよ。(小指を立てながら)こんな奴でも引っかかっていると伐倒方向が変わったり、跳ねたりするんで、よくよく上の方まで確認してから作業にかかるようにしてます。偏心木も多いし、雪の季節だと木の上の枝で着雪が凍っていて、結構な重さになるんですよ、そうするとそれが荷重になって伐倒方向が変わってしまうということもあるんです。」と言って、伐採予定の木々のそれぞれの性格を細かく教えてくれた。造化の妙というべきなのだろう。一様に見えても木は一本一本独自の個性を主張する。その個性をしっかり見抜き、尊重しながら伐採に当たらなければ事故に繋がる。何も伐採に限ったことではないと思える。現場で出会った班長さんの豊かな経験に裏打ちされた話を聞いて、とても厚い信頼感を感じることができたのは大きな収穫であった。

饒舌な職人たち

しかし、5年間にも及ぶ工事は、まだ緒に着いたばかりである。
ここに、平成3年4月から2年余りをかけて建設された福岡ドームの職長会が工事関係者の手記や歌などを取りまとめた文集「童夢」がある。冒頭の「発刊にあたって」で職長会会長中村工業中村実氏は「我々の建設業では一つの建物が完成すると、それに従事した人々はそれぞれ次の工事へと散り散りになってしまう。これは建設業に従事するものの宿命である。福岡ドームにおいても現在までに携わった九千人の多くはすでに現場を離れ、残るものも来年3月には現場を後にすることだろう。本書は、日本初の屋根開閉式ドーム球場建設という世紀の大イベントに携わった全ての者が、その感動と労働の証を銘記し、散り散りになった後もこれから先の人生の「誇り」と「糧」としていただくことを目的として、各人から寄せられた手記、写真、詩等をもとに編纂したものである。一読いただければ全員が一丸となってこの大事業に取り組んだことを感じてもらえると思う」と結んでいる。
千人の前で語りて恥をかく
ことを勇気と我は思わん
KYを はしょったその日に事故に遭い
永年の単身赴任で我が家には
歯ブラシ下着無く父帰る
中一のわが娘のセーラー服姿
二ヶ月遅れて見る我れ悲し
洗わずにそのまま吊るす黒シャツの
汗の塩地図幽かなりけり
工事が大きければ大きいほど、その進展は遅々として目に見える成果が上がらないものである。そうした地道な作業を営々と続ける姿が目に浮かぶ作品である。

そして、それを支える人たちもいる。
「この前、かぞくで、福岡ドームの見学に行きました。げん場のおじさんが、「ヘルメットをかぶってください。」と言ってひとりひとりにヘルメットをわたしてくれました。ずいぶん歩くと大きい、クレンが外にありました。お父さんに聞くと、それは、ドームより高くのびて日本一だそうでびっくりしました。私は、すわる所を、一周して「ハァハァハァ」と言いながら帰ってきました。わたしは、お父さんがこんな広い所を作るなんてすごいと思いました。一日ここで仕事をしている間どのくらい歩くんだろう。お父さんが帰ってきて「つかれた」と言うのはきっとこのせいなんだとわかりました。きれいに、ドームができた時、もう一度お父さんにつれていってもらいたいです。」(小学校3年生 月成愛華)
今日もまた 夜なべ頑張る 職人さん
汁も熱く 待ってます
真暗の ドーム建設 あの箇所の
光も漏れて 残業おつかれさま
(ドーム食堂のおばちゃん 疇地登代)

語り部を支えるもの

普段は寡黙で多くを語らない人々が何故これほどまでに雄弁になれるのだろうか。多くは縦割りであまり繋がりを持たない職長さん方が、緊密に横の連絡をとったことの功績が大きいのだろう。大規模な工事で横の連携が欠くことができなかったともいえるのかもしれない。しかし、それ以上に球場の完成を心待ちにするダイエーホークスのファンの方々や地域の発展を願う多くの地元の方々の熱い期待が一人一人の作業員の皆さんにも伝わってきたからではないだろうか。「人はパンのみにて生きるものにあらず。」という。自分の仕事が社会的に大きな評価を受けるものであり、それをしっかりと自分の視野に入れたとき、人は計り知れない情熱をその仕事に傾けるものなのではないかと思う。それが自信となり、多くの語り部を生んだように思う。
仕事を行っていく上で一定の技量は欠かせない。しかし、仕事が好きで大きな好奇心を抱いている人、さらには楽しんで仕事をしている人ほど輝いて見えるものはない。
仕事は、同僚、家族そして賄のおばちゃんに至るまで、多くの人々によって支えられている。それらの人々を纏め上げるには、断片的な情報ではなく、そこにある大きな夢を語っていく必要があるように思える。夢の実現に事故は大きな悔いを残すことは当事者のみならず、それを支える人とて同じであろう。鉄塔工事が無災害で竣工できることを祈らずにはいられない。
平成18年1月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

労働災害と損害賠償

10月18日の読売新聞1面に「労基署の労災報告 民事裁判使用、国に提出義務 最高裁初判断 被害救済拡大に道」との見出しで「労災事故を労働基準監督署が調査した報告書について、労災の被害者が民事裁判で使う目的で提出を求めた場合、国に提出義務があるかどうかが争われた裁判で、最高裁第3小法廷(上田豊三裁判長)は、調査担当者の意見が記載されている部分を除き、国に提出義務があるとする決定をした。」との記事が出た。岩手日報にも同様の記事が掲載されたが、全国紙の1面にこのような記事が掲載されるということは、身近なことではないかもしれないが、社会一般では裁判で損害賠償を争うケースがいかに多いかを象徴しているといえるのだろう。
労働災害で被災した労働者には労災保険から保険金が支給される。しかし、被災労働者の被った損害を、労災保険がすべてカバーしているかというと、最高裁では法定の労災保険について「労働者のこうむった財産上の損害補填のためにのみなされるのであって、精神的損害の補填を含むものではない」(伸栄製機事件 昭41.12.1 最高裁第1小法定判決)と判示しており、労災保険の手続さえ済めば事足れりとは行かない現実がある。

遺族の心情

朝には笑顔で送り出した最愛の家族が夕べには変わり果てた姿で帰ってくることほど理不尽なことはない。遺族の方が、何故そんなことになったのか、どれほど無念な思いを残して亡くなったのか、それを知りたいという思いを抱いたとしても自然な感情であろう。去る10月23日、JR西日本福知山線の脱線事故について、JR西日本が遺族と負傷者に対して説明会を行った模様がテレビを始めとするメディアで報道された。会社側の説明に対して遺族、被災者は「質問にまともに答えていない」「不誠実な対応は変わっていない」と不信の思いをあらわにしたという。遺族、被災者の研ぎ澄まされた目は、会社側の予断を鋭く見抜く力がある。この説明会に象徴されるのと同様の思いが労働災害においても損害賠償の裁判へと向かわせているように思われる。

事故の残したもの

財団法人労災年金福祉協会が労災年金受給者向けに発行している「労災保険 年金のまど」という冊子がある。その106号(2005年1月)の「読者のページ」に静岡県の遺族となられた奥さんが次のような手記を寄せている。
『昭和51年2月9日、忘れることのできない寒い日でした。出張先から二日間のお休みを頂き楽しく過ごし、翌朝、見送った昼過ぎ会社から電話が入り「ご主人が、ちょっと足の怪我をしたので迎えに伺います」と言って切れました。何故か嫌な予感がしましたが、今思えば、前日子どもと安全靴の紐を買いに行き取り替えていました。常備薬も今度は、「もっと遠くへ行くからいらないよ」その言葉が不自然だったなと感じました。
迎えの車で東名高速道を1時間ほど走り、その間、車中で体は震えていました。足がなくても生きていてほしいと勝手な想像をしての願いでしたが、この時は既に命はなかったようです。病院に着いた時は、もうあたりは暗く外来の人もいず、会社の人が5~6人玄関に出迎えていました。私を支えながら、「今、5分ほど前に残念ながら息を引取りました」との言葉でした。その後、長椅子で待つこと1時間、タイル張りの地下室で白布をかけられた主人との対面で、あまりのショックで“お父さん”と叫んだだけのような気がします。子供のことと、先のことが頭をよぎって泣くに泣けず途方に暮れました。一日として看病することなく、ただただ震えが止まらず、トイレばかりいったことを思い出します。そして、空っ風がヒューヒュー音を立てて吹きまくる寒い中での葬儀でしたが、全てが無事終わりました。
学校も始まったものの父なし子といじめられ、又、深夜の無言デンワでずい分悩みました。子どもを送り出しては、仏壇の前で四十九日まで思いっきり泣きました。人と会うのが嫌で出前食にしたこともありました。気持ちを入れ替え心のよりどころにお菓子作りに熱中したこともありました。そして生活のため工業用ミシンの内職を始め、三つの仕事を掛け持ちしました。昼食の時間も惜しく片手にパンといった具合でした。子煩悩だった主人は37歳、ブルドーザーの関係の仕事をしていました。長男4年生、長女1年生でした。私は35歳でしたが、両親も兄弟もなく縋るところもなく、自分を作ることのほうが強かったのです。昼間のうちにできるだけミシンを掛け、夜に手仕事をして夜明かしもしました。今は二人の子どもに支えられ、少しほっとしています。月日が流れ、無我夢中で過ごしたあの頃が、言葉は似合わないかもしれませんが今は“懐かしい”そんな気がするようになりました。女手一つで生きる大変さ、辛さは、他人の口には戸は立てられぬという言葉がありますが、他人の目ほど恐ろしいものはありませんでした。子どもには、早く当時の親の年齢を過ぎてもらって落着いてほしいと思っています。まだまだ、親の気苦労は続きそうです。そして事故のないことを願っています。』

裁判所の判示

手記を書かれた方が損害賠償請求をされたかは分からない。しかし、この方が“懐かしい”と述懐するまでには30年という歳月が必要だったことを思えば、失ったものの大きさは計り知れない。
最高裁判所は、昭和50年2月25日、「自衛隊車両整備工場事件」判決において「安全配慮義務」という労働契約上の労働災害防止義務を判示し、現在では判例法として、安全のみならず健康管理においても、使用者は「労働者の生命及び健康等を労働災害の危険から保護するよう尽くして労働させるべき義務」を労働契約の付随義務として負い、この義務を尽くさず、労働災害が発生した場合には、「債務不履行として賠償責任を負う」ことが承認されている。
損害賠償請求訴訟での裁判所の判断は、労働安全衛生法等関係諸法規を遵守していたかが問われた時代から、「安全配慮」が尽くされたか、その真摯な対応が問われる時代へと移り変わってきていることを指し示していると言えるのではないだろうか。
平成17年11月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

働きやすい会社

日本経済新聞社が2005年「働きやすい会社」調査を実施し、その結果が9月5日付で発表された(詳細は同日付「日経産業新聞」)。ビジネスマンを対象とした調査では、ビジネスマンが重視している項目として、昨年に引続き「年次有給休暇のとりやすさ」が1位(59.5%)、「実労働時間の適正さ」が2位(44.2%)となった。また、「仕事のやりがい」「適度な労働時間」「高い賃金」のうちどれを重視するかという質問には「仕事のやりがい」が昨年に続いて過半数を占めたが、60.9%から57.4%に減少。逆に「適度な労働時間」が昨年の19.2%から27.7%に急進し17.6%の「高い賃金」を上回った。こうした項目が「働きやすい会社」の条件として上位を占める背景には、有給休暇制度はあってもなかなか休暇が取れない、あるいは労働時間が過長となり家族とともに過ごす時間が制約されているといった労働者がいかに多いかということを物語っていると思う。監督署に寄せられる相談でも、有給休暇に関する事項は多く、労働者本人はもとより、長時間労働で体が心配だという家族からの切実な相談も後を絶たない。

本省勤務

私も若い頃、労働省本省の庶務担当の係長をしていたことがある。5月の連休が明ける頃には、翌年度の予算要求のための作業が始まり、省内の調整が大蔵省に要求書を提出する期限の8月末まで続く。その後は大蔵省や総務庁など査定官庁への説明が予算の大蔵原案が内示される年内一杯続く。この間は、1日の仕事の切りが付くのが深夜2時3時、時には4時頃までかかることもあり、帰りは乗合のタクシーで帰るか幹部の部屋のソファーで仮眠するかといった生活だった。電車の定期は買うことがなかった。高速道路を疾駆するタクシーから朝焼けの街を眺め、家について朝刊に目を通しながら興奮した頭を鎮めるためコップ酒を飲み、それから2、3時間の眠りにつくという毎日だった。寝不足からか、物を考えようとしても頭の芯が痺れるような感じで思考能力は低下していたし、精神的にも変調をきたしていたと思う。思うように仕事が運ばず、上司からよく叱られたが、叱られても反応が鈍っており、それがまた上司の反感を買うという悪循環だった。
家に帰ると、家内はたいていは床について休んでいるが、時折、玄関脇の窓辺に座布団を積んでうずくまったまま、いつ帰るとも当てのない私を待ちくたびれて休んでいることがあった。「帰ったよ」と言って起こすと、うつろな目をこすりながら床に移り、安心して深い眠りにつくようだった。そんな様子がとても不憫でならなかった。
よくそんな生活が続けられたと今でも思う。その頃は「今ここで1日でも休んだら、その後再び出勤できるかどうかわからない」という脅迫感に支配されており、休暇をとっても残した仕事が気になり出勤する有様だった。
そんな憑かれた様な日々であったが、ある日「いつでも辞めればいいんだ」と思い至った途端、急に肩から力が抜け、気分が楽になったことが鮮明に思い出される。

辞めていったキャリア

翌年、幸運にも私はいくらか時間的に余裕のある部署に異動となった。新しい部署の向かいには婦人局という部署があり、法改正の作業で終日灯りが消えることはなかった。それほどは親しくはなかったが、時折挨拶する東大出身のキャリアの係長もそこにいて、改正作業に苦労していた。ある夜、彼とトイレで行き会ったときに「忙しそうだね」と声を掛けた。彼は暫くして「死にたいと思ったことありませんか」と、ポツリと尋ねてきた。彼の心情は以前の部署での経験から手に取るようにわかった。暫く間を置いて、私はそれまでの経験を交えて「いつでも辞めればいいんじゃないの。そんなに自分を追い詰めると心の逃げ場がなくなるよ」と問わず語りに話した。それが彼の心に届いたかどうか分からないが、勤務は相変わらずのまま、時折見かける彼の姿は疲労の色が一層濃くなっていた。
それから2年ほどしてある人の送別会で彼にあった。聞けばあの年の年度末で退職し、現在は経済紙の経営する就職情報の会社で研究員をしているとのこと。新たな活躍の場を得て、顔つきも自信に満ち、穏やかになっていた。

箱根駅伝

箱根駅伝は正月の恒例行事として楽しみにしておられる方も多いと思う。往路復路の2日間、10名20チームで各校伝統の襷をつないでいくレースは、各所に抜きつ抜かれつの波乱を含み、予想もつかない展開がなんとも楽しい。しかし、平成8年の第72回大会では、思わぬ展開にレースの運営自体が社会問題にまで発展した。その大会で優勝候補と目されていた山梨学院大学と神奈川大学が4区で相次いで途中棄権となった。その時の選手と監督の模様は、終始テレビで放映されており、御記憶の方も多いと思う。快走していた選手が急にペースダウンし、程なくコースとなった道路幅一杯にさまようように迷走しはじめる。混濁した意識の中で何とか襷をつなぎたい一心でひた走る選手と、止めるべきか否か判断に苦しむ監督との駆け引きが続く。走り続ければ選手の生命にも関わる事態を招くことにもなる。片や、一度関係者が選手に触れれば、そこで途中棄権となり、襷は途絶える。そんな重苦しい映像が「何で選手を止めないのか」との非難を巻き起こすことになった。
この時の模様は大変鮮烈な印象を残したが、相次ぐ過労死、過労自殺の報道に止まらず、監督署に寄せられる長時間労働の相談に、今の世の中、社長であれ従業員であれ、途中棄権寸前で迷走しているのではないかと思うような働きぶりがとても目に付く。ランニングハイだといって快調に走っている時はよいが、いつも恵まれた情況にいるとは限らない。苦境にあるときにはそのストレスは心身に重くのしかかる。「もう止まれ」と声をかける勇気が今ほど必要なときはないと思う。止めずに走らせ、心身に異常をきたせば社会的非難が待っている。
箱根駅伝では、この事件を教訓に、第79回大会からエントリー選手の数を増やすこととした。以後、途中棄権の事態は発生していない。会社にあっても、この教訓を生かす手立てはないものだろうか。
平成17年10月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

私の父は、明治45年、長野県の片田舎の小学校教員の次男として生まれた。明治生まれだからか、早くに母親を亡くし男手一つで育ったせいか、堅物で真面目な人であった。宝くじが唯一の賭け事であり、ニュースはNHKしか見なかった。趣味と言えばアンチ・ジャイアンツとして野球をテレビ観戦する位、日曜日の朝にNHKの政治討論会を見ることを欠かさなかった。
私がまだ小学生だった頃、友達と草野球をして帰る時、悪童の一人が負けた腹いせに私めがけて石を投げた。それが運悪く私の頭に当たり、3針ほど縫う怪我をした。遊び場だった米軍キャンプ跡には蒲鉾兵舎が残されており、そこが飯場になっていたのだが、兵舎にいたおばさんが怪我をした私を見てオキシフルとガーゼで応急処置をしてくれた。今の親なら「うちの子に何ということをしてくれたのか」と怪我をさせた子の家にねじ込むのが相場かもしれないが、父は、怪我をさせた方は構わず、次の休みの日に菓子折りを買ってきて手当をしてくれた方に御礼をするから案内しろと私の手を引いて兵舎を訪ねた。そんな律儀な父親であった。

中小企業の役員

父は、戦前は財閥系の商社に勤務していたが、戦後は疎開先の長野から旧知を頼って上京し、東京の下町で望遠鏡を製作する小さな会社の役員の職に就いていた。オーナー社長は会社の経営を父に委ね、父も小とはいえ、城代家老として精勤していた。昭和40年代前半までは、対米輸出を中心として会社の経営は安定していたが、昭和46年のドル・ショック以降、会社の経営は困難の度合いを深めていった。そんな折、オーナーが亡くなり、会社は資金的な後ろ盾を失った。父は子供の前で会社の経営状況のことなど口にしなかったが、帰宅が遅くなり、夜中にうなされている様を見れば、子供心にもただならぬ状況にあることは察しがついた。片手間であった母の洋裁の内職も日がな一日続くようになり、スカート一枚を縫って数百円の仕事に夜なべを繰り返していた。やがて父は、それまで終の棲家を得るためにこつこつと積み立てていた住宅公団の債権を手放した。まだ幼かった私を連れて、着工間もない千葉県松戸市の現地に様子を見に行った時の、夢を手に入れる喜びに頬を緩めていた父の顔が思い出されて悲しかった。ささやかな夢を犠牲にして得た資金とはいえ、一介のサラリーマンが調達できる金など経営を立て直すにはほど遠いものでしかなかったであろうことは想像に難くない。窮状は従業員の賃金遅配にまで及んでいたようであった。

新たな経営者

やがて奔走の甲斐あって会社は新たなオーナーを得ることができた。疲れた父の顔に安堵とともに自分の力が及ばなかったことに対する挫折感を感じたのは、必ずしも外れていないと思っている。会社の先行きに展望が開けた頃、珍しく酔って帰った父が、まだ学生であった私を相手に「人間、真面目だけじゃだめだ・・・」と一言漏らしたのを忘れることができない。時代の荒波に敗れ、自力での再建を断念せざるを得なかった無念さが、生真面目な父をして語らしめた一言のように思うが、再びそうした言葉を父の口から聞く事の無かったことは、私にとって幸いなことだと思っている。

監督官となって

監督官となってこれまで幾多の賃金不払事件を担当した。高利の資金に手を出して家族ともども夜逃げをしたもの、会社の現状を正面から捉えず当てのない事業計画に心酔して従業員の離散を招くものなど様々な対応を見てきた。監督署の立場からすれば、他の如何なる債務より優先して労働者の唯一の生活の糧である賃金の早期支払いを求めるものではあるが、事業の継続の可能性という観点からの判断にはいつも悩まされる。多くの善良な経営者は、私財を投げ打ち、家族もろとも路頭に迷う危険を賭して事業の継続と発展に最善を尽くしており、その様子をつぶさに語る経営者に出合うと、思わず父の顔が重なって見えてくる。
窮状に陥った経営者は時として客観的に現状を判断する能力を失っていることも多い。普段、取引をしている銀行や信用金庫が融資を渋るようになったら危険な兆候である。「銀行は晴れているときには傘を貸してくれるが、雨が降ってきた時には傘を貸してくれない」とか「銀行には日傘しか置いていない」とも言われるが、利息を含めて返済してもらうことで銀行は成り立っている。その銀行が融資を断るということは、プロの目から見て、その企業にそれだけの力が残されていないという判断をしていることであり、私達も、あえて会社を整理するよう進言することも少なくない。儲け話の口車に乗ったり、「次こそは一山」と賭けに出たりするようになれば、経営者自身泥沼に身を沈めるようなものである。

供花

父は、その後も役員に留まり、古参の従業員を縄のれんに引き連れてはその不満をたしなめ、定年を過ぎても顧問として陰ながら応援し、常に黒子として尽力していた。引退してからも、何くれとなくやってくる後継者達の話に耳を傾けていた。会社の行く末が最後まで気になっていたようである。
そんな父も病を得て3か月の闘病の末に亡くなった。葬儀には父を頼りに最後まで残った従業員の方がたが参列し、花を手向けてくれた。遺影を囲む生花の中に会社の名前が記されていた。ほかのどの生花よりも父の人生を象徴するものであり、父もまた何よりも喜んでいるように思われた。
父が鬼籍に入って6年が過ぎた。引退後を過ごした長野県上田市の外れに戦没画学生の絵画を展示した「無言館」という美術館があり、父と連れ立ってある夏訪ねた。館内を黙って一巡した後、父はそこの画集を一冊求め、帰り際に私にくれた。戦時中、さまざまな出来事があったであろうが、それを語ることなく、この1冊に込めたのだろう。多くを語ることの無かった父であるが、自分自身、時を経てその年齢に近くなってくると、その足跡がことあるごとに語り掛けてくるように思える。自分の生き様を一番理解してもらいたかったのは、その子供たちであり、その思いを聴き取ることができるのも、親子であるが故なのだろう。
平成17年9月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

プレスの事故


金属加工用プレスで左手の人差し指と中指を切断するという事故があったとの報告があり、事故のあった工場を訪ねた。工場には金属加工用のプレスが整然と並び、どの機械にも作動中に金型に手を近づければ自動的に機械が停止する光線式の安全装置が取り付けられていた。会社の方に案内されて事故のあった機械を見せてもらった。1988年製、圧力能力45トン、フリクション式クラッチの汎用プレスで、この機械にも光線式の安全装置が取り付けられていた。それなのに、なぜ事故は起きたのか。
事故は、プレス作業主任者が新しい金型の取付け・調整を終了し、一般作業員が試し打ちを開始したときに発生した。安全装置のキースイッチは、作業主任者が金型取り付けの調整作業を行うために「切」に切り替えられ、その後スイッチが切り替えられることなく「切」のままにされ、キーも抜かれていなかった。一般作業員は、安全装置のスイッチの状態を確認することなく作業を開始、試し打ちの際に上型から離れなかった製品を取り外すため金型の間に手を入れ、この時点、足踏み式のスイッチを思わず踏んでプレスを起動させてしまったというのが災害発生に至る流れであった。
この工場で使用されていたプレスには、起動装置が「足踏み式」のものと、起動時に金型から手が離れなければ操作できないよう、機械の前面に両手で起動させる釦スイッチが取り付けられており、この「両手操作式押し釦」は、起動装置の役目ととに安全装置としても機能する仕様となっていたが、この会社では起動装置は常態として「足踏み式」を使わせ、二重の安全装置を機能させることができるのに、光線式の安全装置のみで作業を行わせていた。起動装置を「両手操作式」にしておけば災害の発生は防げたものと悔やまれた。

活かされなかった情報

責任者の方から、工場での安全衛生体制などについて話を聞く中で、プレスの特定自主検査の記録を見せてもらった。8ヶ月ほど前に実施された特定自主検査は、プレスメーカーの系列に当たる検査業者によって行われていた。記録は、検査の実施日ごとに一纏めにされ、機械毎には綴られてはいなかった。検査の記録というのは、病院でいえばカルテのようなもの、一台ごとに綴っておけば機械の経年変化も把握できるのにと思いつつ、事故のあったプレスの記録を繰った。
A4版で10枚くらいにはなろうかという検査記録のほとんどは、法定の検査項目に関する結果が並んでいるが、1枚目には検査結果をAからDまでにランク付けした総合評価とともに、補修項目の一覧と検査担当者から見た所見が11項目にわたって記載されていた。
責任者の方に「この検査記録、ご覧になったことありますか」とたずねると、「検査の結果、部品の交換とか修理が必要な箇所については、メーカーの方から見積書が送られてくるので、それで修理をお願いしているが、検査の記録については、記録として残しておくだけで、目を通したことは正直に言ってないです」との返事であった。
検査記録の検査担当者の所見欄には次の事項が記載されていた。
  • 各種の切り替えキースイッチを作業者が勝手に操作できないよう作業主任者がキーを保管してください。(安衛規第134条-2)
  • 本機の安全装置のキー管理がされていません。作業者の安全を守るため、安全装置のキーは作業主任者が必ず保管してください。
  • 足踏み操作は危険です。両手押釦操作式に切り替える改善をして下さい。
(プレス災害総合対策)
プレスの災害は、必ずと言っていいほど後遺障害を残す。プレスによって潰された手指は、手術によってつなぐこともできないければ、再び生えてくることなどありはしないのだから。それだけに、検査担当者が書き残した警告が活かされなかったことが残念でならない。

氾濫する情報

現代は情報社会と呼ばれる。在来のテレビや新聞等の他に、衛生放送の契約をすればチャンネル数は格段に増える。パソコンのインターネットを使えば、キーワードを入力しマウスをクリックするだけで膨大な情報がたちどころにディスプレイ上に現れる。業界紙誌に各種のダイレクトメール。放っておけば机の上は雑多な情報の山と化す。溢れる情報に追いまくられる様は、チャップリンの「黄金狂時代」を髣髴とさせ、ともすれば悲しくもあるが、それが現代に生きる姿なのだろう。
人の持てる時間には限りがある。限られた時間の中で、この溢れる情報の中から真に必要な価値ある情報を把握し、活用していくかは、常に、安全や衛生あるいは労務管理に関して問題意識をもって情報に接していく方法以外ないのではないかと思う。
先のプレス災害を発生させてしまった会社でもそうなのだと思うが、発注書から納品書、請求書といった企業運営に必要不可欠な書類を見落とすことはないであろうが、当座こなさなければならない情報から遠ざかるに従ってそこにある情報は省みられること無く消失していってしまっているものとおもう。会社のリーダーとして従業員の安全が大切であるとの認識を疑うわけではないが、厳しさを増す一方の取引条件に気を使わざるを得ず、氾濫する情報の中から職場の安全や衛生などに関する価値ある情報を的確に把握する余裕も感性も失ってしまっているように思えてならない。
けがや病気になってからでは遅い。特定自主検査のみならず、作業環境測定や健康診断の結果など、職場の環境の改善に必要な情報を見過ごしていないか、今一度見直しをしてもらいたいと思った災害だった。

監督署と情報

花巻署の館内にはおよそ1万2千の事業場がある。これに対して所の職員は13名。必要な情報を提供することは困難を極める。適切な情報が提要できれば、災害も未然に防ぐことができるだろうし、労使間の争いも減少するだろうと思うと忸怩たるものがある。せめて、皆さんが「こんな時はどうすればよいのだろうか」と思った時、情報の集積場所として監督署を気軽に利用していただければと思っている。
平成17年8月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

ハンドル式の汎用旋盤


先日お邪魔した工場でハンドル式の汎用旋盤にお目にかかった。その工場では、自社で開発した技術を駆使して、様々な電気製品を世に送り出している。工場の中は、最新のマシニングセンターやタレットパンチ、もちろんコンピュータ制御のNC旋盤も所狭しと並んでいる。そんな中にあって、よく手入れされたハンドル式の汎用旋盤が「今だ現役!」を主張するように輝いて、一群の機械の一角を占めていた。案内してくれた担当者に「珍しいですね」と声を掛けると、一瞬照れくさそうな様子だったが、誇らしげに「技術を伝えていくためにわざと残してあるんです」との答えが返ってきた。NC旋盤を始めとする数値制御の工作機械が普及してきたのは、もう四半世紀も前のことだろうか。私もこの仕事に入って間もなくの頃、金属加工の工場へ行ってはこのハンドル式の汎用旋盤をよく見たものである。バイトがワークに当たると、ピーンという音と伴にその先から僅かに煙が上がり、切削油のこげる臭いがあたりに漂う。玉虫色の切子がまるで生き物のように刃の先で踊っていた。旋盤工の両の手を使った巧みなハンドル捌きは、職人と呼ぶに相応しく、材料を見つめる様子にはどこか威厳があった。

後世に伝えるもの

この機械の前で、先輩と後輩、新入社員は、どんな会話をするのだろうか。
「戦後間もない町工場に入って、先輩の旋盤職人から、『刃物の切れ味を聞いておきな』といわれた。切れ味を聞いておけ、とは実に味わい深い言葉であったと、いまでも思う。この教えは、その後の五十年余りの旋盤工職人生活でも、ずっと生かされてきた。わたしは後半生の二十五年間はコンピュータ制御のNC旋盤を使ってすごした。その機械はハンドルがない。機械はすべてコンピュータで制御されるので、動き始めれば加工が完了するまで、機械に手を触れることはない。ほとんどの場合、加工中は機械にカバーを掛けてしまうので、バイトが鉄を削るようすを目で見ることもできない。しかし、切れ味を耳で聞くことはできた。切れ味がよければ、切削音は澄んでいる。
1980年代になって、ME化された工作機械が主力になると町工場にもそれまでとはちがう機械工が増えた、彼等は、わたしたちのような見習工時代を経験していはいない。バイトを火造るどころか、研ぐこともできない。その代わりコンピュータ・プログラムやそういう機械の操作だけは、ひととおり憶えている。機械のマニュアルを憶え、プログラムができれば、鉄を削ることはできる。
あるときそういう機械工が使っている機械から、異常な音が聞こえ始めた。明かに刃物が切れなくなった音であった。見ると、彼は何の疑いもなくマシニングセンタというその機械の脇に、ぼんやりと立っていた。たまりかねた年配の職人の一人が駆け寄って、注意したのでことなきを得たが、そのままだったら刃物が折れ、加工品はオシャカになるところだった。
職人が私のところにやってきて言った。
『この世の物とも思えない音がしてるって言うのに、あいつは、どこ吹く風っていう顔して突っ立ってるんだものなあ』
そんな光景は、当時めずらしいものではなかった。熟練工に耳には“この世のものとも思えない”異常な切削音でも、若い機械工には、工場の雑音としか感じとれなかった。彼は機械のマニュアルに従ってこういう材質の鋼ならどのくらいのスピードで削れるということを知ってるし、そのプログラムをして機械を動かせば、それで削ることができると信じていたから“どこ吹く風”だったのにちがいなかった。」(小関智弘著「職人学」講談社刊)
恐らく、この会社ではこんな光景にお目にかかることはないのだろう。自分を育んでくれた機械を前に、先輩から後輩へと技術が伝承されていくのかと思うと、何となく嬉しくなった。古い機械を大事にとっておき、それを使って次の世代を育てる。そんな会社の親心が、独創的な製品を生み出す源泉になっているように思われた。

経験を伝承する

今、団塊の世代が大量に退職する時代を迎え、大手製造企業を中心に、いかに技術を伝承していくかが大きな問題となっている。問題意識を持っているのは限られた会社であるかもしれないが、社会全体で見たとき、その技術や経験が途絶えることは、企業の大小にかかわらず、後の世代全体にとって、大きな損失になることは明らかであり、これを伝承するために要する人件費は、消極的なコストではなく、積極的な投資なのだろうと思う。
旧聞になるが、去る3月29日の岩手日報に「職人育成 始めの一歩」と表題された記事が掲載された。北上市内の金属加工の事業場が市、職業訓練協会、工業高校機械科の連携のもとに、就業予定の高校生に汎用旋盤の使い方などの技能訓練をしたとのこと。事業場の担当者は「ものづくりの基本となる手作業の原理原則を学んで欲しいと思った」と語り、工業高校の先生も「手作業の基本が分からないと、コンピューター制御も使いこなせない」とその必要性を述べている。参加した高校生にとっては技量の差やその厚みを痛感する貴重な体験になったことと思う。先輩から学ぶことは多い。時が過ぎて、勤務時間の後に、酒を酌み交わしながら、正規の時間では語られることのない失敗談の数々も語って聞かせ、型どおりの教育の行間を埋めてくれたらと思うのは高望みであろうか。正解を導く方法ばかり聞かされていても、現実で生じる困難な事態に対処する能力は容易には育たない。失敗こそ語り継ぐべき何よりも貴重な財産だと思うのだが。
最近は職場の仲間同士でお酒を飲む機会も少なく、世代間のコミュニケーションの場がなくなってきた。職場での今は語られるとも、時代の変遷とともに生起した様々な出来事は埋もれ、語られることもない。職業人生の喜怒哀楽が、語られることなく、その人間と共にその職場から消えていくのかと思うと、少し寂しい気がする。
NHKの「プロジェクトX」が多くの視聴者の共感を得ているようであるが、その理由は、今まで語られることのなかった個々人の思いにスポットライトを当てたからではないのだろうか。


平成17年7月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

単身赴任

私が始めて単身赴任をしたのは34歳の時、赴任先は山形県酒田市。単身赴任者の常として、スーパーマーケットで夕食の食材を物色していた、そんな時、遠慮がちに70歳くらいの御夫人が近づいてきて「あの、お勤めは消防署ですか?」と聞かれた。何のことかと面食らっていると「あっ、警察ですか」というので「いや、監督署ですが」と答えると、「やっぱり公務員の方でしたか。それで、失礼ですが独身でいらっしゃいますか?」と、さらに分けのわからない質問。はて、何のことかと思いながらも「いや、結婚していますが」と答えると、いたく恐縮した様子で「それは失礼致しました。実は、私の孫娘の相手にいかがかと思いまして…」狐につままれた思いというのはこのことかと思いながら「いえ、どう致しまして」と言って失礼した。この事を電話で家内に話したら「相手の孫娘という方はどんな方なのか会ってみればよかったじゃないの」といわれ、それはそうだ、惜しい事をしたと、妙な後悔をした。花巻でも単身赴任をしているが、齢50を過ぎては、こんなことは二度と起こるはずもなく、スーパーマーケットで買物をしていても、憐憫の眼差しを背後に感じ、境遇を同じくするものに自分の姿を映し、寂寥の感を強くするといったところか。

母の歌

山形勤務の後、東京に赴任。仕事で新聞の縮刷版を繰っていたところ、短歌の投稿欄に母の名前を偶然見つけた。見ていた版の前後を調べると、数年前から秀作として掲載され始めており、その数も20首を超え、戦中戦後の疎開時代の苦しかった思い出、自分の母のこと、孫のこと、そして何よりも3人いる子供を詠ったものが多かった。そんな歌の中に私の単身赴任を詠んだものがあった。

単身赴任せしと告げし子の任地
酒田というを地図にて捜す
単身赴任の息子が1人
鰈煮て夕餉とるという電話切なし

当時、両親は、東京から父の郷里である長野県の小都市に引き上げ、ささやかに年金暮らしをしていた。たまに電話をしても「元気か」「仕事はどうだ」くらいの会話で、「変わりはないか」「この夏には帰省するから」などと、折角電話しても、ものの5分も話さないで切ってしまうようであったが、そんな電話でのわずかな会話の端々を反芻しながら、離れて暮す子供の事を日々思っていたかと思うと、切なくもあり、改めて親のありがたさを感ぜずにはいられなかった。
そんな両親も、鬼籍に入って久しい。今年は父の七回忌に当たる。日頃は離れて暮す兄弟であるが、それぞれが会う機会を作ってくれるのも親の恩のなせるところであろうか。

転勤と妻

もう何回転勤したのかと指折り数えてみると15回。このうち転居したのは愛知、岩手、東京、山形、東京、そして現在の岩手になる。単身赴任もしたけれど、27年の職業人生でわずか数年。ほとんどは妻を同伴しての勤務だった。結婚した時から転勤族と承知していたはずではあるが、それでもよく付いてきてくれたものと感謝している。
「夫は、職場は変わっても、同じ大きな組織の中にいて人間関係が継続している。秋田で同じ職場だった人と、出張先で出会ったとか、東京に戻ってみれば向こうも来ていたとか、人間関係に断絶がない。そのプラスマイナスもあるかもしれないけれど、妻の目から見ればうらやましい。
うらやましいと言えば、夫は転勤のたびに送別会、歓迎会と何と賑やかなことだろう。人間関係をリフレッシュし、先輩やら後輩やらに取り囲まれて、あれは快感だろうなぁと思う。こっちは、送別会も二つあればいいほう、歓迎会なんて、いまだかつてしてもらったことがない。夫は見知った仲間のところへ、それなりの評価をぶら下げて出かけるが、妻は常に新しい見知らぬ人々の所に入っていくのだから。この彼我の違いがくやしい。
転勤族の妻になったことで、人生をどこかあきらめながら生きてきたと思う。女としてあるいは一人の人間としては夫を恨みながら、だけれども夫の側で暮らすことに安心してついていく。このジレンマからは、夫が定年退職するまで解放されないだろう。」(「転勤族の妻たち」沖藤典子著。講談社刊)
私の妻は、どちらかといえば社交的なほうなのか、転勤する先々に知己を得て、長くお付き合いをいただいている。この岩手にも何人もの知り合いを持ち、こちらに来ると連絡をしては嬉々として出かけていく。岩手の言葉も、私より堪能である。大海とまではいわないが、井の中の蛙にはなることなく、見識を広げられたのも、転勤の効用ではないかと一人合点している。

家族への感謝

先に紹介した本には、転勤に伴う妻や子供、介護を要する親の問題など、その葛藤の様子を広く取り上げているが、こうした仕事を持つ者を取り巻く様々な問題は、何も転勤に伴って生ずるものと限ったことばかりではないのだろう。少子高齢化の進展は、職業人としての生活と個人としての生き方に、さらに様々な問題を投げかけてくる。家族は社会の最小の単位といわれる。その家族が日々、幸せに暮せることが、社会全体を幸せに導いてくれるものと思う。
署長として、職員を預かる立場になると、日々、つつがなく職務に精励する職員を、心置きなく職場に送り出してくれている妻や夫、子供達や親御さんに心から感謝せずにはいられない。そして、心身ともに健康のまま家族の元に返してあげることが、私の勤めであり、家族の方々に対するお礼の気持ちと思っている。支えあう家族の絆は、どんなことがあっても大切にしていきたい。「武田節」には「われ出陣にうれいなし おのおの馬は飼いたるや 妻子につつがあらざるや」とある。名将武田信玄の家臣への気遣いをあらわしたものであろう。名将とは程遠いが、私にできることは何か、業務との両立の中で、自問の毎日である。

平成17年6月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成

「5S」について考える

工場や現場にお邪魔すると、事務所や休憩室の壁に「4S」や「5S」のポスターをよく見かけます。「4S」は「整理」「整頓」「清掃」「清潔」のローマ字読みの頭文字を取ったものであることは、皆さん御存知のことと思います。「5S」は、これに「躾」を加えたもの。最近読んだ本には「作法」を加えて「6S」としているところもあるとか。様々な工夫が加えられて、広く普及している取組みとなっています。この「4S」「5S」運動というのが、どのように生まれたのかはよく分かりませんが、思えば子供の頃に、親からも、学校でも、「整理」「整頓」というのは口うるさくいわれてきた記憶があるので、古くからある日本の躾文化が発展して現在に至っているのかと考えています。
さて、実際に工場や現場を拝見すると、どうも「整理」「整頓」というのが掛け声だけで、確かにここにハンマーを掛けましょう、ここにドライバーを掛けましょうということで、ボードに絵を書いて、そこに掛けるようにした形跡は見られるのですが、ほとんどの道具がそこにはなく、乱雑に工作台の上に散乱している、あるいは、工事現場などでも、キンクしたり錆びたりして廃棄の時期にきている玉掛用のワイヤーが道具小屋の中に放り出してあるといった光景を目にします。「5S」のポスターの傍らのこの光景は、現場の責任者はもとより、経営のトップの方の「5S」にかける意気込みが全く感じることはできませんし、従業員に何を求めているのか、それをきちんと伝えているのか考えてしまいます。

5Sの目的は?

「整理整頓ができている

 会社は儲かっている」!

「5S」運動が安全衛生運動の一環として捉えられている向きもありますが、本来の目的というのは、稼働率の向上、短納期化、品質の向上そして安全性の向上といった、工場管理全般を対象としている運動というのが正しい捉え方だと思います。ちなみに「整理」と「整頓」の違い、「清掃」と「清潔」の違いはなんでしょうと問われたら何とお答えになるでしょうか。「5Sをやってシャッキ!としなさい」(ジット経営研究所編[工場管理2005年1月臨時増刊号])の解説によれば、

  • 「整理」とは「要る物と要らないモノをはっきり分けて、要らないモノを捨てる」こと
  • 「整頓」とは「要るモノを使いやすいようにきちんと置き、誰でも分かるようにする明示する」こと
  • 「清掃」とは「常に掃除をし、きれいにする」こと
  • 「清潔」とは「整理・整頓・清掃の3Sを維持する」こと
とありました。
先日、「日本電産 永守イズムの挑戦」(日本経済新聞社刊)という本を読みました。永守氏といえば三協精機をはじめとして23社に及ぶ会社の再建を手がけた経営者で、ご存知の方も多いと思います。その著書の中で、3Q6Sが究極の経営手法であると書かれていました。3Qとは「Quality Worker」「Quality Company」「Quality Products」のこと、6Sは先に書いたとおりです。「儲かっているところと儲かっていないところの違いは何処か」というと「整理整頓ができているところは儲かっている」とし、「なぜ6Sが利益に直結、改善するのか。例えば、整理・整頓ができていると、モノを探す時間が減り、労働時間の質が高まるため、生産性が向上し、収益が改善する。さらには、部品や仕掛品の管理が行き届くため、在庫負担も軽減する。不必要なモノがなくなって作業の段取りも円滑になるため、生産性が向上する。整理・整頓の二つのSだけで、これだけの効果が見込める。六つのSであらゆるムリとムダとムラを排除して、効率的な仕事ができる環境を整えることで、収益力を改善するといえる。」と述べています。こうした発想が、本来の「5S」運動の基本的な考え方だと思います。
「5S」運動は、直接、安全衛生を目的とするものではないかもしれませんが、安全衛生が生産活動の歯車のひとつであると考えると、「5S」運動は安全衛生も取り込むものであり、副次的ではあるかもしれないけれども、これに大きく貢献するものといえるのではないかと思います。

現場は人に見せるもの

ミネベアの荻野五郎前社長の金言として先日の新聞(日経4月18日)に「工場は最大のセールスマン」という言葉が紹介されていました。納入先や銀行のアナリストにも積極的に工場見学を勧めていたそうですが、その理由は「品質や供給の安定性で安心感を与えるためには実際の生産現場を見てもらうことが、営業員の言葉よりはるかに説得力がある。」との考えからだったとのこと。それができたのは、工場管理がしっかりとでき、他人に見せられる自信があったからできたことと思います。先の永守氏の語録にも「汚い水の中ではよい魚は育たないのと同様に、汚い工場からは決してよい製品は生まれない。」という言葉がありますが、同じ考えからきているのではないでしょうか。
銀行の融資担当者が、融資先の便所を見て、汚れたままにしているような会社は経営にゆとりがない証拠だから融資するものではない、と言われていたそうです。(今もそうかは知りませんが…)監督署が会社にお邪魔する時も同様で、(別に便所を見て云々いうことはありませんが…)事務所なり、工場なり、あるいは工事現場でも、整理整頓が行き届いている会社は、安全衛生管理においてもあまり大きな問題が無いというのがこれまでの経験則上いえると思います。それは、経営者の方をはじめとして、方針が明確で従業員の方々に浸透していること、また、これを維持するための管理体制がきちんと構築されていることからであるように思います。
さて、改めて「5S」に挑戦してみてはいかがでしょうか。

もう一つの「5S」

「Salt」(塩)、「Snacks」(スナック)、「Sitting」(座りっぱなし)、「Smoking」(タバコ)、「Sugar」(砂糖)の「5S」。こちらは生活習慣病にならないために「追放」すべき「5S」。併せて一考を。
平成17年5月2日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成