労働災害と損害賠償

10月18日の読売新聞1面に「労基署の労災報告 民事裁判使用、国に提出義務 最高裁初判断 被害救済拡大に道」との見出しで「労災事故を労働基準監督署が調査した報告書について、労災の被害者が民事裁判で使う目的で提出を求めた場合、国に提出義務があるかどうかが争われた裁判で、最高裁第3小法廷(上田豊三裁判長)は、調査担当者の意見が記載されている部分を除き、国に提出義務があるとする決定をした。」との記事が出た。岩手日報にも同様の記事が掲載されたが、全国紙の1面にこのような記事が掲載されるということは、身近なことではないかもしれないが、社会一般では裁判で損害賠償を争うケースがいかに多いかを象徴しているといえるのだろう。
労働災害で被災した労働者には労災保険から保険金が支給される。しかし、被災労働者の被った損害を、労災保険がすべてカバーしているかというと、最高裁では法定の労災保険について「労働者のこうむった財産上の損害補填のためにのみなされるのであって、精神的損害の補填を含むものではない」(伸栄製機事件 昭41.12.1 最高裁第1小法定判決)と判示しており、労災保険の手続さえ済めば事足れりとは行かない現実がある。

遺族の心情

朝には笑顔で送り出した最愛の家族が夕べには変わり果てた姿で帰ってくることほど理不尽なことはない。遺族の方が、何故そんなことになったのか、どれほど無念な思いを残して亡くなったのか、それを知りたいという思いを抱いたとしても自然な感情であろう。去る10月23日、JR西日本福知山線の脱線事故について、JR西日本が遺族と負傷者に対して説明会を行った模様がテレビを始めとするメディアで報道された。会社側の説明に対して遺族、被災者は「質問にまともに答えていない」「不誠実な対応は変わっていない」と不信の思いをあらわにしたという。遺族、被災者の研ぎ澄まされた目は、会社側の予断を鋭く見抜く力がある。この説明会に象徴されるのと同様の思いが労働災害においても損害賠償の裁判へと向かわせているように思われる。

事故の残したもの

財団法人労災年金福祉協会が労災年金受給者向けに発行している「労災保険 年金のまど」という冊子がある。その106号(2005年1月)の「読者のページ」に静岡県の遺族となられた奥さんが次のような手記を寄せている。
『昭和51年2月9日、忘れることのできない寒い日でした。出張先から二日間のお休みを頂き楽しく過ごし、翌朝、見送った昼過ぎ会社から電話が入り「ご主人が、ちょっと足の怪我をしたので迎えに伺います」と言って切れました。何故か嫌な予感がしましたが、今思えば、前日子どもと安全靴の紐を買いに行き取り替えていました。常備薬も今度は、「もっと遠くへ行くからいらないよ」その言葉が不自然だったなと感じました。
迎えの車で東名高速道を1時間ほど走り、その間、車中で体は震えていました。足がなくても生きていてほしいと勝手な想像をしての願いでしたが、この時は既に命はなかったようです。病院に着いた時は、もうあたりは暗く外来の人もいず、会社の人が5~6人玄関に出迎えていました。私を支えながら、「今、5分ほど前に残念ながら息を引取りました」との言葉でした。その後、長椅子で待つこと1時間、タイル張りの地下室で白布をかけられた主人との対面で、あまりのショックで“お父さん”と叫んだだけのような気がします。子供のことと、先のことが頭をよぎって泣くに泣けず途方に暮れました。一日として看病することなく、ただただ震えが止まらず、トイレばかりいったことを思い出します。そして、空っ風がヒューヒュー音を立てて吹きまくる寒い中での葬儀でしたが、全てが無事終わりました。
学校も始まったものの父なし子といじめられ、又、深夜の無言デンワでずい分悩みました。子どもを送り出しては、仏壇の前で四十九日まで思いっきり泣きました。人と会うのが嫌で出前食にしたこともありました。気持ちを入れ替え心のよりどころにお菓子作りに熱中したこともありました。そして生活のため工業用ミシンの内職を始め、三つの仕事を掛け持ちしました。昼食の時間も惜しく片手にパンといった具合でした。子煩悩だった主人は37歳、ブルドーザーの関係の仕事をしていました。長男4年生、長女1年生でした。私は35歳でしたが、両親も兄弟もなく縋るところもなく、自分を作ることのほうが強かったのです。昼間のうちにできるだけミシンを掛け、夜に手仕事をして夜明かしもしました。今は二人の子どもに支えられ、少しほっとしています。月日が流れ、無我夢中で過ごしたあの頃が、言葉は似合わないかもしれませんが今は“懐かしい”そんな気がするようになりました。女手一つで生きる大変さ、辛さは、他人の口には戸は立てられぬという言葉がありますが、他人の目ほど恐ろしいものはありませんでした。子どもには、早く当時の親の年齢を過ぎてもらって落着いてほしいと思っています。まだまだ、親の気苦労は続きそうです。そして事故のないことを願っています。』

裁判所の判示

手記を書かれた方が損害賠償請求をされたかは分からない。しかし、この方が“懐かしい”と述懐するまでには30年という歳月が必要だったことを思えば、失ったものの大きさは計り知れない。
最高裁判所は、昭和50年2月25日、「自衛隊車両整備工場事件」判決において「安全配慮義務」という労働契約上の労働災害防止義務を判示し、現在では判例法として、安全のみならず健康管理においても、使用者は「労働者の生命及び健康等を労働災害の危険から保護するよう尽くして労働させるべき義務」を労働契約の付随義務として負い、この義務を尽くさず、労働災害が発生した場合には、「債務不履行として賠償責任を負う」ことが承認されている。
損害賠償請求訴訟での裁判所の判断は、労働安全衛生法等関係諸法規を遵守していたかが問われた時代から、「安全配慮」が尽くされたか、その真摯な対応が問われる時代へと移り変わってきていることを指し示していると言えるのではないだろうか。
平成17年11月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成