東基連会報‗編集雑感【平成28年12月号】

本年9月に電通の新入社員の自殺が業務上災害と認められた事件は、長時間労働の是正を柱とする働き方改革の議論が緒に就いたばかりということ、また、平成3年に自殺した社員の損害賠償事件については最高裁まで争い、電通が敗訴した経緯があり、さらに今回の事件を受けて労働局が本社と3支社を強制捜査するに至ったことなどにより、マスコミでも繰り返し取り上げられ、大きな反響を呼んでいます。最高裁での敗訴を受け、一度は労働環境の改善を誓ったにもかかわらず、その後の監督署による再三の是正勧告によっても改められることのなかったのは会社の気質、社風によるものなのでしょうか。そして、こうした気質、社風は電通に限ったものなのでしょうか。
住友商事元常務・鈴木朗夫氏の評伝「逆命利君」(佐高信著。1989年12月、講談社刊)にこんな一節があります。
「当時、個人的に親しくしていた欧州共同体の役員に招かれて夕食を共にしたときのことである。落日の遅い夏の日の夕食を始めたのは午後十時半をまわっていた。たまたま、レストランの真向かいに日本の某大手企業のオフィスがあり、あたりのビルのオフィスはみんな退社して真っ暗なのに、そのオフィスだけが煌々と明かりをつけ、かなりの数の日本人社員が忙しそうに働いているのが見えた。
それを指差しながら、その役員は次のように鈴木に問いかけた。
『われわれヨーロッパ人には一定の生活のパターンがあり、それは“市民”として果すべき義務にしたがって構成されている。すなわち市民たるものは三つの義務を応分に果たさねばならない。
一つは、職業人としての義務であり、それぞれの職業において契約上の責任を果すことである。二つは家庭人としての義務であり、職業人としての義務を遂行したあとは家庭に帰って妻子と共に円満にして心豊かな家庭生活を営み、子女を訓育すること。三つには、それぞれの個人として地域社会(コミュニティ)と国家に奉仕する義務である。
これら三つの義務をバランスよく果さないと、われわれは“市民”としての資格を失う。
ところが、真向かいのオフィスで働いているあの人たちは、どう見ても一つの義務しか果たしていないように見える。あの人たちは妻子、家庭をかえりみず、コミュニティに対する義務を放棄し、仕事だけに生活を捧げているのではないか。
ヨーロッパにも、市民としての義務を一部免除された人たちがいる。軍人と警察官と囚人である。しかし、あの人たちは、囚人ではあり得ない。警察官でもない筈だ。とすれば最も近いのは軍人であり、彼らが属する組織は軍隊に似たものであるに相違ない。
われわれは先にいった三つの義務を応分に果しながら通常の生活を営む市民である、彼らは仕事のみに全生活を捧げる一種の軍人である。われわれが家庭人としての義務を果している間にも、教会へ行っている間にも、彼らはひたすら働いている。彼らはヨーロッパに来てヨーロッパのルールを無視しているが、これはアンフェアだと思う。
軍隊と市民が戦ったら軍隊が勝つことは明らかである。このような競争はアンフェアであり、アンフェアな競争の結果としての勝敗もアンフェアだと思うがどうか』
同感するところの多い鈴木は反論できなかった。日本人が“勤勉のモノカルチャ”の中に囲い込まれ、彼らから、会社もしくは仕事を取り上げたら何も残らないという会社人間、仕事人間になってしまったという状況は戦後四十年余り経ったいまも改善されていない。」
問題の本質が「滅私奉公」といった日本人の勤労観にあるとしたら、法規制を強化してもどこかに抜け道を捜し、繰り返される悲劇に終止符を打つことは難しいように思えます。引用した「逆命利君」とは、漢の劉向が編纂した「説苑」にある言葉で「命に逆らいて君を利する、之を忠と謂う」を略したものとの注釈がついています。長時間労働を命じられてもこれに逆らい、効率的な働き方によって会社の利益を上げる、と穿った読み方をしても、現実を見ると虚しさが残ります。私達が“市民としての資格”を得るための働き方改革、意識改革の道のりはまだまだ先が長く、不断の取組と検証が求められていると思うのですが、いかがでしょうか。
(羅針盤)