私の父は、明治45年、長野県の片田舎の小学校教員の次男として生まれた。明治生まれだからか、早くに母親を亡くし男手一つで育ったせいか、堅物で真面目な人であった。宝くじが唯一の賭け事であり、ニュースはNHKしか見なかった。趣味と言えばアンチ・ジャイアンツとして野球をテレビ観戦する位、日曜日の朝にNHKの政治討論会を見ることを欠かさなかった。
私がまだ小学生だった頃、友達と草野球をして帰る時、悪童の一人が負けた腹いせに私めがけて石を投げた。それが運悪く私の頭に当たり、3針ほど縫う怪我をした。遊び場だった米軍キャンプ跡には蒲鉾兵舎が残されており、そこが飯場になっていたのだが、兵舎にいたおばさんが怪我をした私を見てオキシフルとガーゼで応急処置をしてくれた。今の親なら「うちの子に何ということをしてくれたのか」と怪我をさせた子の家にねじ込むのが相場かもしれないが、父は、怪我をさせた方は構わず、次の休みの日に菓子折りを買ってきて手当をしてくれた方に御礼をするから案内しろと私の手を引いて兵舎を訪ねた。そんな律儀な父親であった。

中小企業の役員

父は、戦前は財閥系の商社に勤務していたが、戦後は疎開先の長野から旧知を頼って上京し、東京の下町で望遠鏡を製作する小さな会社の役員の職に就いていた。オーナー社長は会社の経営を父に委ね、父も小とはいえ、城代家老として精勤していた。昭和40年代前半までは、対米輸出を中心として会社の経営は安定していたが、昭和46年のドル・ショック以降、会社の経営は困難の度合いを深めていった。そんな折、オーナーが亡くなり、会社は資金的な後ろ盾を失った。父は子供の前で会社の経営状況のことなど口にしなかったが、帰宅が遅くなり、夜中にうなされている様を見れば、子供心にもただならぬ状況にあることは察しがついた。片手間であった母の洋裁の内職も日がな一日続くようになり、スカート一枚を縫って数百円の仕事に夜なべを繰り返していた。やがて父は、それまで終の棲家を得るためにこつこつと積み立てていた住宅公団の債権を手放した。まだ幼かった私を連れて、着工間もない千葉県松戸市の現地に様子を見に行った時の、夢を手に入れる喜びに頬を緩めていた父の顔が思い出されて悲しかった。ささやかな夢を犠牲にして得た資金とはいえ、一介のサラリーマンが調達できる金など経営を立て直すにはほど遠いものでしかなかったであろうことは想像に難くない。窮状は従業員の賃金遅配にまで及んでいたようであった。

新たな経営者

やがて奔走の甲斐あって会社は新たなオーナーを得ることができた。疲れた父の顔に安堵とともに自分の力が及ばなかったことに対する挫折感を感じたのは、必ずしも外れていないと思っている。会社の先行きに展望が開けた頃、珍しく酔って帰った父が、まだ学生であった私を相手に「人間、真面目だけじゃだめだ・・・」と一言漏らしたのを忘れることができない。時代の荒波に敗れ、自力での再建を断念せざるを得なかった無念さが、生真面目な父をして語らしめた一言のように思うが、再びそうした言葉を父の口から聞く事の無かったことは、私にとって幸いなことだと思っている。

監督官となって

監督官となってこれまで幾多の賃金不払事件を担当した。高利の資金に手を出して家族ともども夜逃げをしたもの、会社の現状を正面から捉えず当てのない事業計画に心酔して従業員の離散を招くものなど様々な対応を見てきた。監督署の立場からすれば、他の如何なる債務より優先して労働者の唯一の生活の糧である賃金の早期支払いを求めるものではあるが、事業の継続の可能性という観点からの判断にはいつも悩まされる。多くの善良な経営者は、私財を投げ打ち、家族もろとも路頭に迷う危険を賭して事業の継続と発展に最善を尽くしており、その様子をつぶさに語る経営者に出合うと、思わず父の顔が重なって見えてくる。
窮状に陥った経営者は時として客観的に現状を判断する能力を失っていることも多い。普段、取引をしている銀行や信用金庫が融資を渋るようになったら危険な兆候である。「銀行は晴れているときには傘を貸してくれるが、雨が降ってきた時には傘を貸してくれない」とか「銀行には日傘しか置いていない」とも言われるが、利息を含めて返済してもらうことで銀行は成り立っている。その銀行が融資を断るということは、プロの目から見て、その企業にそれだけの力が残されていないという判断をしていることであり、私達も、あえて会社を整理するよう進言することも少なくない。儲け話の口車に乗ったり、「次こそは一山」と賭けに出たりするようになれば、経営者自身泥沼に身を沈めるようなものである。

供花

父は、その後も役員に留まり、古参の従業員を縄のれんに引き連れてはその不満をたしなめ、定年を過ぎても顧問として陰ながら応援し、常に黒子として尽力していた。引退してからも、何くれとなくやってくる後継者達の話に耳を傾けていた。会社の行く末が最後まで気になっていたようである。
そんな父も病を得て3か月の闘病の末に亡くなった。葬儀には父を頼りに最後まで残った従業員の方がたが参列し、花を手向けてくれた。遺影を囲む生花の中に会社の名前が記されていた。ほかのどの生花よりも父の人生を象徴するものであり、父もまた何よりも喜んでいるように思われた。
父が鬼籍に入って6年が過ぎた。引退後を過ごした長野県上田市の外れに戦没画学生の絵画を展示した「無言館」という美術館があり、父と連れ立ってある夏訪ねた。館内を黙って一巡した後、父はそこの画集を一冊求め、帰り際に私にくれた。戦時中、さまざまな出来事があったであろうが、それを語ることなく、この1冊に込めたのだろう。多くを語ることの無かった父であるが、自分自身、時を経てその年齢に近くなってくると、その足跡がことあるごとに語り掛けてくるように思える。自分の生き様を一番理解してもらいたかったのは、その子供たちであり、その思いを聴き取ることができるのも、親子であるが故なのだろう。
平成17年9月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成