ハンドル式の汎用旋盤


先日お邪魔した工場でハンドル式の汎用旋盤にお目にかかった。その工場では、自社で開発した技術を駆使して、様々な電気製品を世に送り出している。工場の中は、最新のマシニングセンターやタレットパンチ、もちろんコンピュータ制御のNC旋盤も所狭しと並んでいる。そんな中にあって、よく手入れされたハンドル式の汎用旋盤が「今だ現役!」を主張するように輝いて、一群の機械の一角を占めていた。案内してくれた担当者に「珍しいですね」と声を掛けると、一瞬照れくさそうな様子だったが、誇らしげに「技術を伝えていくためにわざと残してあるんです」との答えが返ってきた。NC旋盤を始めとする数値制御の工作機械が普及してきたのは、もう四半世紀も前のことだろうか。私もこの仕事に入って間もなくの頃、金属加工の工場へ行ってはこのハンドル式の汎用旋盤をよく見たものである。バイトがワークに当たると、ピーンという音と伴にその先から僅かに煙が上がり、切削油のこげる臭いがあたりに漂う。玉虫色の切子がまるで生き物のように刃の先で踊っていた。旋盤工の両の手を使った巧みなハンドル捌きは、職人と呼ぶに相応しく、材料を見つめる様子にはどこか威厳があった。

後世に伝えるもの

この機械の前で、先輩と後輩、新入社員は、どんな会話をするのだろうか。
「戦後間もない町工場に入って、先輩の旋盤職人から、『刃物の切れ味を聞いておきな』といわれた。切れ味を聞いておけ、とは実に味わい深い言葉であったと、いまでも思う。この教えは、その後の五十年余りの旋盤工職人生活でも、ずっと生かされてきた。わたしは後半生の二十五年間はコンピュータ制御のNC旋盤を使ってすごした。その機械はハンドルがない。機械はすべてコンピュータで制御されるので、動き始めれば加工が完了するまで、機械に手を触れることはない。ほとんどの場合、加工中は機械にカバーを掛けてしまうので、バイトが鉄を削るようすを目で見ることもできない。しかし、切れ味を耳で聞くことはできた。切れ味がよければ、切削音は澄んでいる。
1980年代になって、ME化された工作機械が主力になると町工場にもそれまでとはちがう機械工が増えた、彼等は、わたしたちのような見習工時代を経験していはいない。バイトを火造るどころか、研ぐこともできない。その代わりコンピュータ・プログラムやそういう機械の操作だけは、ひととおり憶えている。機械のマニュアルを憶え、プログラムができれば、鉄を削ることはできる。
あるときそういう機械工が使っている機械から、異常な音が聞こえ始めた。明かに刃物が切れなくなった音であった。見ると、彼は何の疑いもなくマシニングセンタというその機械の脇に、ぼんやりと立っていた。たまりかねた年配の職人の一人が駆け寄って、注意したのでことなきを得たが、そのままだったら刃物が折れ、加工品はオシャカになるところだった。
職人が私のところにやってきて言った。
『この世の物とも思えない音がしてるって言うのに、あいつは、どこ吹く風っていう顔して突っ立ってるんだものなあ』
そんな光景は、当時めずらしいものではなかった。熟練工に耳には“この世のものとも思えない”異常な切削音でも、若い機械工には、工場の雑音としか感じとれなかった。彼は機械のマニュアルに従ってこういう材質の鋼ならどのくらいのスピードで削れるということを知ってるし、そのプログラムをして機械を動かせば、それで削ることができると信じていたから“どこ吹く風”だったのにちがいなかった。」(小関智弘著「職人学」講談社刊)
恐らく、この会社ではこんな光景にお目にかかることはないのだろう。自分を育んでくれた機械を前に、先輩から後輩へと技術が伝承されていくのかと思うと、何となく嬉しくなった。古い機械を大事にとっておき、それを使って次の世代を育てる。そんな会社の親心が、独創的な製品を生み出す源泉になっているように思われた。

経験を伝承する

今、団塊の世代が大量に退職する時代を迎え、大手製造企業を中心に、いかに技術を伝承していくかが大きな問題となっている。問題意識を持っているのは限られた会社であるかもしれないが、社会全体で見たとき、その技術や経験が途絶えることは、企業の大小にかかわらず、後の世代全体にとって、大きな損失になることは明らかであり、これを伝承するために要する人件費は、消極的なコストではなく、積極的な投資なのだろうと思う。
旧聞になるが、去る3月29日の岩手日報に「職人育成 始めの一歩」と表題された記事が掲載された。北上市内の金属加工の事業場が市、職業訓練協会、工業高校機械科の連携のもとに、就業予定の高校生に汎用旋盤の使い方などの技能訓練をしたとのこと。事業場の担当者は「ものづくりの基本となる手作業の原理原則を学んで欲しいと思った」と語り、工業高校の先生も「手作業の基本が分からないと、コンピューター制御も使いこなせない」とその必要性を述べている。参加した高校生にとっては技量の差やその厚みを痛感する貴重な体験になったことと思う。先輩から学ぶことは多い。時が過ぎて、勤務時間の後に、酒を酌み交わしながら、正規の時間では語られることのない失敗談の数々も語って聞かせ、型どおりの教育の行間を埋めてくれたらと思うのは高望みであろうか。正解を導く方法ばかり聞かされていても、現実で生じる困難な事態に対処する能力は容易には育たない。失敗こそ語り継ぐべき何よりも貴重な財産だと思うのだが。
最近は職場の仲間同士でお酒を飲む機会も少なく、世代間のコミュニケーションの場がなくなってきた。職場での今は語られるとも、時代の変遷とともに生起した様々な出来事は埋もれ、語られることもない。職業人生の喜怒哀楽が、語られることなく、その人間と共にその職場から消えていくのかと思うと、少し寂しい気がする。
NHKの「プロジェクトX」が多くの視聴者の共感を得ているようであるが、その理由は、今まで語られることのなかった個々人の思いにスポットライトを当てたからではないのだろうか。


平成17年7月1日
花巻労働基準監督署長時代
滝澤 成